人生、うまくやるだけなら簡単だ。
ニーバーの祈り
人生をうまくやる秘訣の一つに、「ニーバーの祈り」がある。
それは次のような言葉だ。
神よ
変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。
例えば、他人。
他人のことは変えられない。
そこは諦め、他人のことを完全にあるがままに受け容れ、そして、自分にできることをやるしかない。
この例は、少しわかりやすすぎたが、実際に、生きていく中で出会う試練や課題において、どこまでが変えることができて、どこまでが変えられないのかなんて、わからないケースがほとんどだ。
人生を楽にうまく生きる方法
為せば成るとか、そんな頑張りの精神を教わりながら、受験なんかもしのぎつつ、大人になってきた。
だけど、これまで誰もあまり教えてくれなかったんだけど、社会人になってしまったら、人生を楽にうまく生きる方法がある。
それは、少しハードルがあることは、早々に、これは変えられないものだと見切ってしまい、それを前提条件としてしまうことだ。
言うなれば、アッサリ派。
アッサリ考えて、無理そうなことは無理だと割り切って、それにより生まれるスピーディな決断や、ハイハイ言って争わず、ニコニコしている方が、驚くことに、功を奏するケースも多い。
特に、変化を必要としない世の中や組織、環境であれば、早々に、「これは変えられないことだ」「これは無理だ」と見限るに、こしたことはないのだ。
楽にうまく生きたいわけじゃなくない?
しかし。しかしだ。
楽にうまく生きたいのか、大変だけど面白く生きたいのか。
どちらなのかをそろそろはっきりさせないといけない。
もし明日死んじゃって、棺桶に入って、幽体離脱して自分を見下ろしたとき、何を思い返して、なんてつぶやいて、あの世に旅立ちたいのか?
あんなこともあって、大変だったけど、オモロイ人生だったなぁ。と言いたくはないか?(あ、ここは人それぞれだけど、)
面白く生きるには、アッサリ派では難しい。
簡単にやれることはもうだいたいのことは他人にやられてるから、ハードルのないアクションで、何か新しいことをやれるわけがない。
単に歯車として、グルグル回ってるだけじゃあ、涙が出るような体験はできない。
世の中に、何かを生み出そうとしたならば、どこかで、「これは変えることができる」と信じて、勇気を持って、なんと言われようと突き進んでいく覚悟が必要になる。
「コッテリ」と、しつこく粘って、本当に変えられないかを確認していく必要がある。
とっても、しんどいけどね。
じゃあどう生きていくのか?
アッサリ派は、それほど変化が求められない時代や環境では、すごく認められやすい。
コッテリ派は、変化が求められる時代に、何かを成し遂げ、頭角をあらわすかもしれない。
どちらで生きていけばいいのだろうか。
ここでは、ニーバーの祈りが役に立つ。
他人に認められるかどうか。それは、それこそは、自分ではどうしようもない、変えられないことなのだ。
だから、間違いないのは、どんな時代や環境や組織にあっても、面白く生きたいのなら、認められるかどうか、他人からなんか言われるかどうか、なんてことは考えずに、やりたい!という思いがあれば、それに素直に従えばいい。
ニーバーの祈りよりも大切なこと
変えることのできるものと、
変えることのできないものとを、
識別する知恵を
神が教えてくれるのではない。
変えたいのか、変えたくないのか。
ただそれだけだ。
それは、自分の内なる思いが、
教えてくれる。
自分の内なる声に、
ただ耳をすませば良い。
あとは、勇気と思いやり。
忘れませんように。