クリスマスになんですが、今年ハマった、仏教の本を読み返しています。
この本は、すごく感じるところが大きいのですが、その中から、もしかして、日本人が空気を読んで行動する理由はこれかもしれないという話です。
周りとの関係で正解を決める日本人
一般的に、日本人は周りの空気を読んで、意思決定をしていく傾向にあります。
僕はこれが嫌いです。
自分はこう思う。きみはどう?
という議論を自由に重ね、お互いの主張を理解した上で、責任のあるひとが、それに見合う権限を持って、決定するのがいい。
そうしないと、我が事のように必死で考えるひとがいなくなって、おかしな決定になりかねない。
こういう土壌に、さらに権威主義が重なれば、YESマンを増殖させることになり、過剰に調和をはかろうとしすぎたYESマンたちは、組織を硬直化させ、風通しを悪くしてしまう。
日本人が空気を読む理由
日本人たちが空気を読むのは、農耕民族としての習慣・文化のせいだと思ってました。
村の空気を読んだ行動をしないと、村八分にされてしまう。
移動せずに、みんなで仲良く村に根付いて暮らしていくなかで、みんなの意見を感じ取り、突飛な発言をしないように気をつけるという文化が醸成されたのではないかと思ってました。
狩猟民族のように、絶えず異なる環境に飛び込みながら、生き残っていくためには、メンバーの多様な意見や主張を出し合うことが有益だったが、日本ではそういう文化がメジャーにならなかった。
だから、空気を読むことが大事だった。行間を読むことがむしろ美しかった。
それが、理由だと思ってきました。
仏教は自分を主張することを否定している
しかし今年読んだ、とある本は、仏教が、宗教という枠というよりも、実はとても合理的でクールな考え方を示してくれていることに気づかせてくれました。
その中に次の一節があります。
これこそが正しいと主張することを 、わたしはしない 。見解への執着を 、ただの執着であると理解して 、他者が陥るあやまちをあやまちとして理解しつつも 、囚われることはない 。わたしは自らの心の状態を見つめて 、心の平安と澄明さを保つ 。 ─ ─スッタニパ ータ 〈あるバラモンへの返答 〉の節
心をクリアにすることをヨシとする仏教の世界では、自分が何かを正しいと主張することを否定しています。
まず 「正しさ 」は 、人それぞれに違うものだと理解します 。 「正しい 」という判断は 、本人にとっては間違いなく 「正しい 」のだから 、相手の言い分は否定しません 。
(「反応しない練習」)
それぞれ人は違う脳を持っているのだから、考え方も違うし、価値観が違えば、正解は変わってくる。
これは、技術や自然科学の世界ではなく、社会や文化や経営の世界で、特によく当てはまることなのだろう。確かに正解はない。
そこをしっかりと仏教は見極めています。
そういうなかで、人と人が主張しあっても、意味がないじゃないというクールな立場をとっているのです。
自分は正しい、認められたいという「慢」が顔を出してくると、異なる意見に対して自分が否定されたように感じ、怒りで反応する人もでてきてしまったり、自分の考えに固執すると、心が揺り起こされるのです。(「反応しない練習」)
そして、その主張による心の乱れの原因となる「慢」、承認欲みたいなものによって、不快な状況に陥ることがないように、みなを諌めています。
うん。なるほどね。
まとめ
つまり、日本人が空気のなかに解を見出そうとしがちな原因には、日本人が農耕民族として育んできた文化が根底にあるだけではなく、自分の意見を強く主張することを良しとしていない仏教の教えがあるかもしれません。
ただ、その仏教の教えは、確かに、心を安らかに生きていくためには大切ですが、新しいことが次々に起こる変化の時代にあって、生きるか死ぬかの選択が迫られる時代や世界では、あまり役に立たないのかもしれません。
「慢」は否定するけれど、意見を言い合うことまでは、仏教は否定していないわけですから、クールに、意見を出し合って、良いと思えるものを選択していければ、それが一番いいとボクは思います。
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