3月になると、少し気分が上向きになる。
誕生月だから。
そういうと、その歳になって、誕生日気にしてるのあなただけよ、と嫁に笑われる。
確かにそれだけでもない。
春がもう、すぐそこ。
だから嬉しくなってる。
それもある。
むしろ、好きなものに理由なんかない。
なんにでも理由を探すのをやめて、心の声をただ聞けばいい。
ふと、おばあちゃんの存在を思い出した。
おばあちゃんは、母の兄、つまり、ぼくのおじさんの家に住んでいた。
3月になると、おばあちゃんは、ぼくの家に来てくれた。2週間くらいかな。
学校から帰り、夕飯時になると、いつもの食卓の輪の中におばあちゃんがいることが、とってもうれしかったのを覚えてる。
大きな思い出は、ぼくが中学生だった頃。
おばあちゃんと二人で留守番する機会があって、近くのお寺に桜を観に行こうといって、歩いて出かけた。
3月の終わりだが、満開だった。
きれいやなぁ。
帰りは、おばあちゃん、タクシー乗ろかと言ったけど、タクシーつかまらなくて結局歩いて帰った。
かなり疲れさせてしまったのを今でも後悔している。
それから約10年。
就職して2年目くらいの3月。
おばあちゃんは、今年は実家に来れないという話を聞いた。
風邪をこじらせて、入院しているという。
母は何度かお見舞いに行ってた。
あまり良くない状況と聞き、会いに出かけた。
久しぶりに会ったおばあちゃんの身体は、ベッドの上で、信じられないくらい小さくなってた。
泣きながら、身体を拭いてあげている母の横で、ぼくは完全に言葉を失ってた。
いつもぼくに、「そんなに勉強して、大きくなったら何になんの?」と、愛情たっぷりに聞いてくれてたおばあちゃんに、「こんな仕事をしているよ」とか、もっと話すことあっただろうに、何も出てこなかった。なんにも。
別れ際になって、やっとのことで言えた言葉がこれだった。
おばあちゃん。
また、サクラ見に行こうな。
サクラ。見に行こう。
もうすぐ咲くから。
また、来るから。
ドアのところで振り返ったとき、寝たままのおばあちゃんの右手が天井に向かってすっと持ち上がった。
そして指は2本。
ピースサインだった。
いつもユーモアを忘れない。
おばあちゃんらしいメッセージ。
それからしばらくして、おばあちゃんが亡くなった。
命日は、ぼくの誕生日だった。
思い出すと悲しいけれど、こういう思い出が宝物である。
思い出す限り、おばあちゃんはぼくの中に生きている。
そんな宝物が、ぼくにとっての3月をじんわりと温かいものにしてくれてるのかもしれない。