今日はクロサカタツヤさんの記事「SNSの終わり」から感じたことを少し書きます。
SNSの終わり:クロサカタツヤの情報通信インサイト - CNET Japan
SNSという機能が社会から必要とされる時代は、もう終わったんじゃないかと、感じています。
えっ。と思いました。
なにせ、僕はまだまだSNSの可能性を感じていたからです。
まだまだフォロワーも少ないボクにとっては、今まで知らなかった人の意見を知ったり、自分の意見を発したりするためのチャンスをくれる道具。それがSNSです。
SNSは出来損ないの増幅装置?
しかし、SNSを活用しまくったクロサカさんが行き着いたのは、以下の通り、「出来損ないの増幅装置」。
で、結局何なのか。ぼくなりに出した答えは、「これは出来損ないの増幅装置だ」ということです。
そもそも増幅装置だから、ネタ元がないと、何の役にも立たない。そういう意味で、ぼくらの生活に、あったら便利かもしれないけど、なくてもいい。そして、うまく作動することもあるんだけど、不調でノイズを撒き散らす頻度の方が高い。
たしかに、元ネタを口コミで拡げていくという機能はずばぬけていて、増幅装置というのはうなづけます。
そして、元ネタを作れる人こそが強いのだということが身に沁みます。
フォロワーとたくさん絡んできたクロサカさんにとっては、このノイズにうんざりするようなシーンがたくさんあったのでしょう。
しかし、情報を受けたり、発信したりするチャンスを作る道具としてとらえたら、そんなノイズはスル―すればいいじゃんか。そう思ってしまう。
SNSにいったい何を求めるっていうんだ。
ツイッターの何に期待していたのか。これが普及するプロセスで、人間中心の社会が実現するんじゃないかという、そういう期待をもっていたんですね。ルネサンスといったら大げさけど、そんな感じ。でも実際は、SNSは人間のことを何も見ていなかった。
結局のところ、SNSは、人間一人一人に対する配慮が、ものすごく足りないんだと思います。
「人間中心の社会の出現」 を求めていたということ。
すごいスケールだ。確かにそれを求めたら、SNSは答えられないし、とてもノイジーかもしれない。特に、匿名系のものは。
しかし、フェースブックは、ものぐさなボクが仲間とつながることを強くサポートしてくれている。ついついドライになっていきがちな仲間とのつながりをゆるやかにキープしてくれていて、次あったときには、「旅行行ってたの?」というところから入れるくらい、距離が近いものになる。
ツールとしては十分じゃないのか?
(なんとなくつながっている気になっているのがまずいということか??)
「人間中心の社会」とは、何を意味するのか。
クロサカ氏は、バーで隣り合った人との会話を引き合いに出す。
「人間中心の社会」とは、「やっぱり、人と人のつながりが一番大切だよ」と感じさせるような社会なのかな?
ボク個人としては、この実感はある。
「やっぱり、人と人のつながりが一番大切だよ」
ときどき忘れそうになるが、確実にそう思う。
その感覚をくれたのは、SNSではない。
家族や仲間と過ごした楽しい時間や、会社の先輩や同僚と何かを成し遂げた経験、母親が死んだときにボクを支えてくれた妻や仲間や親せきだ。
SNSは効率的にいつでもつながれるところが売りである。
これに対して、人が人とのつながりの強さを感じるのは、効率の悪い中での、あるいは、2度とないんじゃないかというような中での、出会いや経験なのではないか。
つまり、ここが完全に相反しているから、SNSは人のつながりの大切さを感じさせるものにならないのだ。
電子メールよりも手書きの手紙を送った方が、想いが伝わる。そういう話であろう。
SNSを使うときに気を付けるべきこと
逆に、人が人とすぐつながれるというのは、人が身近になるということでもあり、ある意味、人が空気のような存在になることかもしれない。
つまり、あってあたりまえ、いてあたりまえというものになる。
それが悪いことなのかはわからない。
(嫁さんとて、空気のような存在になって、それはそれで気を使わない関係って素晴らしいのだが、感謝を忘れると怒られる)
誰にとっても、気が合う人というのはいるもので、そういう人とは出合ったあと、やはり大切に付き合っていくのだろう。
SNSによって、そういう人に出合えるチャンスとしては広がっているのは間違いないのだから、そういう人をキャッチできるアンテナさえ失わなければ、やはりメリットは大きいのではないか。
この記事を読んで、そんなことを思った。